2017.10.01

書評連載 本ってどう楽しめばいいの?第1回

はじめまして。ペンギン飛行機製作所の所員、池田と申します。わたしはふだん、本をつくる、編集者というしごとをしています。「編集者です」と言うとだいたい、「昔から本が好きだったんですか?」と聞かれます。それにお答えするならば「とっても好きでした!」

でも、「小説を読むことが、そんなに楽しくない」という人も、たくさんいます。「マンガならばイラストがあるから、どんな場所にいてどんな気持ちかがすぐ分かるのに、文章からは、それを想像するのが難しい」「マンガや映画に比べて、ストーリー展開や感情の起伏がゆっくりだから、まどろっこしい気持ちになる」「本を読むのは勉強というイメージが強くて、読みつづけるのがつらい」こんなふうにいう人がたくさんいる反面、本を読むことが最高の娯楽だなあと思う、私のようなひともいます。

本が好きな人は、どんなことを考え、楽しみながら本を読んでいるの?
この連載では、そんなことを交えながら、私のおすすめの本を紹介していきたいなと思っています。

「本には興味がないけど、読んでないとまずい気もする。でも、何をどうおもしろがっていいのかわかんない」という不都合を解決できるような連載にしたいと志しています。

「どんなに辛くても悲しくても、食べなければ生きていけないから。何かを食べるために動き出さなければならないから。」

『キャベツ炒めに捧ぐ』(井上荒野)は、食いしん坊におすすめ

食べることが、供養になる。そんな経験はないだろうか。あるいは、何かの痛みを癒すためにわざと、思い出の品を作ったり、食べたりするような経験は。
この本の主人公、江子(こうこ)にとってそれは、「ひろうす」であり、「あさりフライ」なのだ。

この本は、小さくて美味しい惣菜屋「ここ家」で働く3人の女性たちの、つらい過去や、続いていく切ない想いをかかえようとも、おいしいお惣菜をつくって、食べて、そしてデートに出かけて、毎日を手抜きすることなく生きる姿を書いた短編集だ。
読後はすっきりと、あたたかい気持ちになれる。

三人の主人公のひとりめは、ずっと想いつづけている幼なじみの年下の彼がいる麻津子。
ふたりめは子どもにもダンナにも死に別れた郁子。
そして三人目は、気取らないけれどおいしい惣菜を売る「ここ家」のオーナーである江子。かつて、いっしょにこの惣菜屋を始めた恵海(えみ)という女性が、江子の夫と再婚をしてしまう。江子は、その夫の家に、数か月に一度、普段より明るい声を出すように気をつけて電話をし、元気に明るく遊びにゆくような女性だ。

おいしそうな料理描写をご堪能あれ〜!

まず最初のおすすめポイント。
この本の料理描写はとてつもなくおいしそうなのだ!

茸の混ぜごはんは、しめじとしいたけとエリンギと牛コマ少しを炒めて醤油と味醂で味つけして、バターをひとかけら加えて、炊きたてのごはんに混ぜる。青ネギの小口切りも最後に散らす。炊き込みごはんよりもボリュームがあって、チャーハンよりはあっさりしている。

こんなふうに、そのままキッチンに行って再現できそうな表現もあれば、

今日のラインナップはその他に、茄子の揚げ煮、茸入り肉じゃが、秋鮭の南蛮漬け、蒸し鶏と小松菜の梅ソース、豚モモとじゃがいもの唐揚げパセリソース、白菜とりんごとチーズと胡桃のサラダ、さつまいもとソーセージのカレーサラダ、それに定番のひじき煮とコロッケと浅漬け各種を加えて、全部で十一種類。

というような、「自分だったら何を買おうかな? 豚モモとじゃがいもの唐揚げパセリソースは、カラッと揚がった温かい唐揚げに少し酸味のあるソースがかかっていそうでハズせないよなあ、でも揚げ物ならコロッケもいいよね作るのめんどくさいけど揚げたて食べたいし……」などと、妄想がふくらむメニュー系の表現もある。

ほかにも、

まずビールを一口。それから熱々のフライを、最初はそのままひとつ食べる。はふはふはふ。ほいひー。と江子は口に出して感嘆した。二つ目はレモンを絞って。串三本目でいちどソースをかけてみよう、と計画を立てる。

なーんていうような、自分も熱々のフライを食べているかのような気持ちになれるような表現もある。 

本を読むことにまだ慣れていない人でも、まずはこの本の食べ物描写を読んで、「味」を頭のなかで想像してみてほしい。
茸の混ぜご飯の、お肉とごはんと茸とバターのうまさが口の中で混ざり合って、噛んでいうるうちに青ネギの味がひょこっと顔を出す感じを、少し冷めたコロッケのざくざくの衣を口に入れた感触を、揚げたてのアサリフライの熱さを。

自分がその場に置かれたら……想像して身もだえて!

そして、もちろんこの本のすごさは、食べ物描写だけじゃない。
 人は、一緒に食べたあの食べ物を作ったり、食べたり、あのお店に足を運んだりすることで、思い出を整理していくことができることがある。

第二話の「ひろうす」という物語の中で、江子の記憶を呼び覚ましたのは、「おでん」だった。
冒頭にも書いたけれど、江子の夫であった白山は、江子の友人と再婚した。その夫と友人の暮らす家に遊びに行った江子の前に、白山はなんと、思い出の「ひろうす」の入ったおでんを運んできたのだ。

そしておでん鍋が運ばれてきた。

 かつお節と昆布と鶏の手羽先で濃くとった出汁に、薄口とお酒と味醂少しで上品に味つけしたほとんど透明のおつゆ、そのおつゆがじゅうぶんに染みこんだ大根や里芋や玉子、つやつやの練り物がうわっと練り物になっているおでん。
 とてつもなくおいしい、ということは食べる前からわかっていた。江子の夫だった頃にも、白山はよく作ってくれたから。
「これ、ひろうすね」
と江子は指摘した。
「ああ、僕が作ったんだ。旨いぞ」
と白山は言った。

はじめにこの部分を読んだだけのときは、別になんとも思わなかった。ああおでんがおいしそうだなあ、でも、昔よく作ってくれたおでんを出されたら、江子は少しつらい気持ちになるだろうなあ、というくらいのことを思いながら読みすすめていた。

しかし、その4ページ先まで読み進めてみると、いきなりさっき読んだこのシーンが、きりきりと心をしめつけてくるようになるのだ!! それは、白山の家から帰った別の日に、ゆり根を市場で見つけた江子が、店で1人、ひろうすをつくっているシーンだ。

 ひろうすは江子の大好物だった。
 ただのひろうすじゃない、ゆり根入りの、白山が作ったひろうすだ。最初に食べたのがあまりにもおいしかったから、よくねだって作ってもらった。
 一緒に買い物へ行き、八百屋でゆり根を見つけたときは、白山が江子を呼んだ。江子、ゆり根が出てるよ、買う? 買う、と答えるのを知っていてそう聞くのだ。ゆり根を買うと、白山は決まって言う、じゃあ次は豆腐屋だな。
 そのことを江子は覚えていた。それなのに、あの家のおでんにはまったく無造作にひろうすが入っていて、これ、僕が作ったんだ、旨いぞ、と白山は屈託なく言った。白山は忘れてしまったのだろうか? 覚えてはいるが、忘れられないわけではない、ということか。「覚えている」と「忘れられない」の間には、きっと十万光年の距離があるのだ。

ここを読んで、心のなかで「ちょっとーーーー!!!!!」と大声を出した。
そんな過去があったの? それって、それって……ああ、この間出してもらったあつあつのおでんの前で、いったい江子さんはどんな気持ちだったのだろう……。「旨いぞ」と言われてひろうすを取り皿に取り分けられたりしたら、一体どんな顔でそれを食べたらいいんだろう?

こんなふうに、さっきはなんともなく読んでいた描写が、あとから「まじか!!!」という驚きに変わるのが、小説のおもしろいところだと思う。
あるセリフを読んだ瞬間に「ひっ、ひどい」と憤慨したり、本を抱きしめて「ありがとう…!!!!」と心から思ったりする。
そんなときは、次の行にすぐ進もうとしなくていいと思う。思う存分その気持ちにひたったり、もう一度前の描写を読み返して憤慨したりして、心ゆくまで楽しんでから次にいけばいい。それができるのが、本というメディアのすごくいいところだから。

自分の好きなときに、好きなように読めばいい!

本は、「速く読むことがすごいことだ」とか「絶対に読み終えなくちゃいけない」って、思わなくっていい、と思うんです。
だれもいま、あなたが本を読み終えるのに1か月かかるからって文句は言いませんし、本好きの中にも、ゆっくり読書を楽しむ人はたくさんいます。
まんがだって、最終巻まで読破しないでおわることなんてたくさんありますよね。でもそれで誰もあなたを責めたりしないんですから、本だって同じことです。

えーと、いかがでしたでしょうか。私はこんなことを思いながら本を読んでいてます。皆さんも同じだったかな? それとも全然違ったでしょうか。
どちらにせよ、この本を読んでみてくださったら嬉しいなあ。
あーでもひろうす、せつないなあ。せつないなあ。そして、揚げたてを食べてみたいなあ。

ご興味のある方は、全国の書店様、またはネット書店様へ。
『キャベツ炒めに捧ぐ』井上荒野(角川春樹事務所)
撮影:鈴木江実子/文:池田(所員)
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